部屋を完璧に片付けたら

散らかった部屋とメランコリーな12ヶ月。無気力に無駄に毎日を過ごしてしまう主婦。散らかったリビング、食器が溜まったシンク、やらなきゃいけないことはいつも先延ばし。そんなダメな自分を変えたいブログ。部屋を完璧に片付けたら…きっと私は変われる。

苦しくて助けを求めた実家が鬱の元凶だった話【毒親に気づくきかっけ】

私は息子が2歳の時、可愛いと思えなくなっていた。

育児ノイローゼで、鬱だった。

家はゴミ屋敷、コバエが飛びまわっていた。

その頃は毎日ボーとして生きていたから日付感覚もなかった。

終業式の朝、明日から夏休みに入ることに気づき、戦慄した。

何もかもイヤ!ダメ!と泣きわめく、気に入らない時はすぐに殴る、噛み付く、凶暴で乱暴な息子と毎日二人きりで過ごす絶望感。

夫は夜も休日もほとんど家に帰ってこなかったから、完全にワンオペ育児だった。

実家は好きじゃなかったけど、息子と二人でいるよりはマシだと思い、私は夏休みの間、実家に帰った。

夫からは「元気になるまで帰ってこなくていいよ」と言われた。

 

実家には祖母も妹(末っ子)もいて、息子と遊んでくれて助かった。

いつもはママしかいない大人。

周りの人みんなからかまってもらえて息子は嬉しそうだった。

母も時々遊んであげていて、うちの母も子供と遊べるんだと妙に関心してしまった。

 

私はその頃、鬱症状緩和のための漢方薬を飲んでいて、もしかしたら母がその薬何?と心配して聞いてくれるかもしれないと淡い期待を持ってしまっていた。

もし心配してくれたら、育児のことを相談したいなとかバカなことを考えていた。

この時まだ毒親だと気づいていなくて、まだ母に期待していた。

 

だけどあの母が私のことを心配するはずもなく、薬を飲んでいるところを見られても何も言われなかった。

毎週末帰ってきてくれていた妹(次女)だけが「その薬なに?どこか悪いの?おねえちゃん大丈夫?」と心配してくれた。

私は「最近、眠れないんだ…」と話始めたが、すぐに母に話を遮られた。

「あっそ。そんなことより向かいの◯◯さんが酷いのよ〜」と近所の人の悪口が始まった。私はやっぱり話せないなと思った。

 

子育てのことも何度も相談しようとしたが、無視されるか怒られて話は聞いてもらえなかった。

「お母さんちょっと相談したいことあるんだけどいい?」とお伺いをたてても、

「今、テレビ見てるんだからうるさい」と怒鳴りつけられた。

そのとき見ているテレビは「Qさま!!」だった。

母にとって、娘の相談よりQさま!!のほうが大事だった。

 

テレビを見ていない時を見計らって相談したこともあった。

「お母さんあのさ、◯◯(息子の名前)のことで困ってることがあって…」

私が話出すと、母はおもむろにスマホをいじりだす。

母「それより、△△と●●離婚だって!」

私「誰?」

母「知らない。声優だって」

私「…」

知らない人の離婚というどうでもいい話題以下の娘の存在。

 

息子は食べ物の好き嫌いが多く、その話になった時に私は思い切って母に聞いた。

「どうやったら好き嫌いなくせるのかな?私たちの時どうだった?」

「あんた親でしょ!親なんだからそんなこと自分で考えなさい!あんたのためを思ってお母さんは…(省略)」

質問しただけで、怒鳴りつけられて、説教が始まった。

 

そういえば、子供の時から話聞いてもらえなかったなと気づく。

私は実家に帰ってからさらに夜眠れなくなっていった。

 

母は私が眠れないと言った次の日の朝5時から掃除機をかけ始めるようになった。

偶然なのか嫌がらせなのか分からない。

私はイライラし「夜眠れないって言ったじゃん!やっと眠れたの4時なの!こんな朝早くから掃除機かけないでよ」と抗議した。

それでも私の念願は無視され、早朝の掃除機は続いた。

翌週妹が家に来て「お姉ちゃん眠れるようになった?」と聞いてくれた。

「お母さんが朝早くから掃除機かけるのやめてくれなくて、困ってる」とみんなの前で話した。

次の日からやっと早朝の掃除機はなくなった。

 

ある日母は猛烈に怒っていた。

駐車場の料金所で前の車の人があいにく一万円札しか持ち合わせておらず、バックして欲しいと言ってきたらしい。

そこで母は「200円くれてやるから、ささっと車出しなさいよ!」と相手の顔に百円玉を投げついたという話だった。そしてそれを一日中怒っていた。

怖っ!と思った。

 

そしてその時初めて客観的に母のことを見ることが出来た。

母はおかしい。

 

確かに小銭を用意していなかったという相手の落ち度がないこともないが、そこまで怒るほどのことではない。

そうか今まで私もこういう状態だったのかと気づく。

少しでも落ち度があればそれを武器にして、攻撃しまくっていたのだ。

親が「あんたのため」という言葉を使えば、どんな言葉も正当化される。

 

私のためと言いながら、母の説教はただのストレス発散のはけ口だったんだと気づく。

私の話は聞いてもらえる価値がないんだと思い知らされた。

 

私は親のことが好きじゃないと思っていたけど、好きじゃないのは親のほうだったんだな。私は母から愛されていないということにようやく気がついた。

 

私はその日、居間に財布を置きっ放しにしていて、

「こんなとこに置いといたら、お父さんに盗られるわよ!ちゃんとしまっておきなさい」と、また怒られた。

 

私は夫に「元気になってないけど、家に帰っていい?」と泣きながら電話した。

 

私が帰る場所はあのゴミ屋敷しかなかった。

本当の毒親は、弱くて不幸な母親【毒親エピソード】

父親はクズ親だったけど、私にとって毒親ではない。

本当の毒親は、弱くて不幸な母親。

 

父親のくせに養ってくれなかったし、ずっと一緒に暮らしていたのに父から優しくされた記憶も楽しい思い出のひとつもない。

だから父親を捨てることに罪悪感も未練もない。

 

でも母は違う。母は私たちのために働いてくれた。

洗濯をしてくれた。お弁当を作ってくれた。

愛情がまったくなかったわけではないと思う。

 

母は不幸だった。

財布から生活費を盗られ、いつもお金に困っていた。

「息子が働かずにパチンコに行くのはあんたのせいだ」といつも祖母から責められていた。

毎晩ビールを飲んで酔い潰れていた。

 

「あんた達のせいでお金がない」

「あんた達のためにこんなに働かなきゃいけない」

「あんた達のせいで離婚できないんだから」

 

子供の頃からずっと言われてきた言葉。

私は本当にそうだと思っていた。私たち娘がいるせいでお母さんは大変なんだって。

自分なんかいなくなったほうがいいのかなと思うこともあった。

 

私は長女で典型的なアダルトチルドレンのヒーロータイプだった。

母を楽にしてあげるために手伝いをし、喜ばせるために勉強をがんばった。

でもどんなに頑張っても「ありがとう」も「頑張ったね」という言葉は言ってもらえなかった。

 

食器を洗ってあげたのに「ここ拭いてないじゃない。妹ちゃんはきちんと拭くわよ。あんたは気が気なくて本当にダメな子」と妹と比べ、人格否定し、怒られる。

母が熱を出した時におかゆを作っても「お父さんに寿司買ってきてって頼んだから、いらない」と冷たく言われ、一口も食べられすに捨てられる。

 

話かけても無視され、私の話は聞いてもらえなかった。 

母との会話は、すべて愚痴と悪口で成り立っていた。

母から聞かされる愚痴や悪口にただうなづき、母を労う。

自分の意見を言ったり、質問をすることは許されなかった。

「なんでそんなことになるの?」や「もっとこうしたほうがいいと思う」なんて言った日は「子供のくせに親をバカにして。この親不孝者!」と怒り出す。

母の感情はいつも不安定で、どんな些細なことでも突然怒り出した。

私はいつ母が怒り出すか怯え、緊張していた。

 

「虐待されていないからまだいいじゃん」とよく言われる。

たしかに私は、暴力はうけていない。

激高した母が顔に物を投げつけてくるくらいだった。

たしかに体は傷つかなかったかもしれないけど、心は傷ついた。

子供の頃から長い時間かけて、人格否定されつづけたら、心が蝕まれてくんだよ。

親の不幸を私たち子供のせいにされた。

親の不幸を押し付けられて、背負わされた。

八つ当たりで毎日怒られていた。

 

目に見えないだけで、分かりにくいだけで、あれも虐待だったのじゃないかな。

 

よく「自分が親になったら、親の苦労が分かる」って言われたけど、

今自分が親になってみてわかったのは「お母さんは私のことを愛してくれなかった」ということだった。

 

母が大変だったのは分かる。

でもその不幸の原因は、ダメな父親とそんな人と離れない母親自身。

私たち娘のせいじゃない。

母の不幸は私のせいじゃない。

 

未だに母から手紙が届く。

母は相変わらず不幸で悲劇のヒロインで「お母さんも睡眠薬がないとまだ夜眠れません」とか「あなた達がいてくれたおかげで、あの家で頑張ってこられました」とか書いてくる。

言い方は柔らかくなっているけど、同情を得て、自分の思い通りに娘を操ろうとしてくるのは変わらない。

もうお母さんの不幸アピールも愚痴も悪口もうんざりだよ。

 

今日ここに書き出したことで、傷付いた心を客観的に感じ、気づき、癒すことが出来たのかな…。

アダルトチルドレンの本に書いてあった

「自分の傷、無意識に抑制してきた心の傷を理解し、過去と決別する」

 

簡単には出来なそうだけど、頭の中だけで考えていたことを今、自分の言葉にして吐き出せるようになった。

だから私はきっとこの苦しさから抜け出せる。

 

 

 

女子高生だった私が父親を殺した話【実録毒親エピソード】

人生を変えるプログラムをやってみて、自分の問題点と課題が見えてきました。

今、私が改善すべき点はまずは睡眠の質を高めること。

私は不眠症です。なぜ眠れないのか。

この6週間でその根本的な理由に気がつきました。それは親の存在。

私が眠れない時に考えていることは親への恨み、愛されなかった惨めさ、悲しみ、悔しさ…。

もう親とは一方的に連絡は絶ってるのに、それでも今なお、毒親に囚われている。

このモヤモヤした苦しい思いは書き出すことで、消化できる気がしたので、ブログに書き込んでいきたいと思います。

※一部過激な表現があります。

 

私が物心がついた時には、父親はほとんど働いていなくて、毎日開店から閉店までパチンコ屋に入り浸るパチンカス。

パチンコに行くためなら、平気で嘘をつくし、お金を盗む最低な人間だった。

人をひいたと嘘ついたり、祖父母が1個10円のボタン付けの内職で稼いだ僅かな収入や子供達のお年玉でさえも盗っていった。

父が歯磨きをしているところは見たことがない。

前歯は全部虫歯で、髪も髭もボサボサで、ボロボロの服をきた父は見すぼらしく、汚くて、まるでホームレスのようで本当に大嫌いで、軽蔑していた。

それでも優しかったり、面白かったりすればまだ救いがあるが、養ってもいないくせに家の中では威張り、家族をバカにして、人格を否定する言葉を平気で言う。今で言うモラハラ野郎。人の気持ちが分からない人だった。

 

母親の常套句「両親揃ってるのがどれだけ幸せなのかよく考えなさい!お母さんはあんたたちのために離婚しないんだから」というセリフも大嫌いだった。

 

家族への愛情も親としての責任感もなく、社会的に見ても底辺の屑が自分の父親なのだという事実は、私を惨めにした。

親を尊敬できない、むしろ軽蔑している、家が貧しい、毎日の夫婦喧嘩、家の雰囲気が悪い…。私のメンタルはきっとやられていた。

私は小学生の頃から父親を殺す方法を考えて過ごしていた。

庭にはスズランが咲いていて、この葉をニラに混ぜて料理したら毒で死んでくれないかなとか、車の運転席の下にスチール缶を転がしておいたら、ブレーキ踏めなくて事故ってくれないかなとかよく妄想していた。

死んで欲しい。

子供の頃からずっと思ってきた。

父親に死んで欲しいと思わなきゃやっていけない子供時代。

この話を実際に友達に話したことがある。

「虐待されなかったんだから、まだいいじゃん」

「それでも親だからよく話し合えば分かり合えるよ。許してあげなよ」

 

この嫌悪感を超えた父への憎悪は誰にも伝わらないのかもしれない。

 

私が高校生の時、教科書や定期代を買うために貯めていたバイト代が盗まれた。

私は泣きながら母に訴えた。

自分の為に貯めたものだけど、このお金は母の為に貯めたものでもあった。

苦労している母の為に、高校生だった自分が出来る最大限のことだった。

買いたい服もCDも我慢したのに。

私は思わず口にだしてしまった。

「あんなやつ死ねばいいのに」

ずっと思ってきたことだった。口にするのは初めてだった。

 

母は烈火の如く怒りだした。

「お父さんがいなかったら、あんたは今存在してないのよ。お父さんに謝りなさい。お父さんに感謝しなさい」

話はすり替わり、私はさんざん怒られ、父の窃盗の話はどこかへ行った。

盗られたお金は返ってこなかった。

 

その数日後、父親がまた勝手に借金をつくっていたことが発覚し、母は一人で家出した。

バイトから帰ると珍しく家に父がいて、ヘラヘラしながら「お母さん、実家に帰っちゃったから、これ食べて」とカップ麺を手渡してきた。

こんな時なのにニヤニヤ笑う顔が心底気持ち悪く、嫌気がさした。

その瞬間、今まで抑えてきた父親へ感情が爆発した。

「死ね!!」と言ってカップ麺を床に叩きつけた。

 

その夜、あんなのが自分の親だと思いたくなくて、私は父親を殺した。

心の中で。

本当に殺したかったけど、あんなやつのせいで自分の人生を棒に振りたくなかったから、心の中で殺すしかなかった。

 

わたしには父親はいない。

それから20年以上父親とは話していない。

 

両親揃っていることが幸せとは限らない。

一緒に暮らしているのに、愛情も関心もなく、何もしてくれない方が子供にとって残酷なこともあると思う。

 

ずっと避けて、心の奥にしまっていたこのネガティブな感情。

 

私に父親はいない。

 

無事に成仏してください。南無ー。

 

【人生を変えるプログラム】で本当に人生が変わるのか?うつ病の主婦が6週間チャレンジした結果

自分を変えて、鬱を克服するためにメンタリストDaiGoさんがニコニコ動画で公開している「【本気で人生を変える】カリフォルニア大学式6週間人生改造プログラム」に挑戦しました。

 

本気で人生を変える6週間人生改造プログラムとは、食事・運動・瞑想などの良い習慣によりマインドフルネスな状態に持っていくことで、人生をより豊かに生きるための方法。

 

人生を変えるために設けたルールは8つ。

  • 睡眠時間10時間の確保(8時間睡眠を目指す)
  • 朝起きたらベッドメイキング
  • ストレッチもしくは散歩1時間
  • 加工食品を食べない(炭水化物を食べるのは運動してから)
  • ヨガ1時間半もしくは筋トレなどの運動
  • 瞑想1時間
  • マインドフルネスになるための勉強1時間(読書やDaiGo先生の動画を観る)
  • 他人に親切にする

 

プログラムを始める前の私の基本情報

  • 専業主婦。無気力状態。1年半以上引きこもり。
  • 仕事などによる睡眠不足やストレスで自律神経を壊し、うつ状態不眠症
  • 運動習慣なし。ほぼ動かない。1日中ソファーに沈んでいる。
  • 料理はしない。食事は主にコンビニ弁当、冷凍食品、カップ麺。
  • 掃除はしたり、しなかったり。
  • 一人の時は基本外にでない(買い物、子供のお迎えなどは行ける)
  • 誰にも会わない日々(ラインやメールに返信しないでいたら、当たり前だけど誰からも連絡がこなくなり孤独な状態)
  • メイク、ブローなど身だしなみを整えることが億劫。
  • 毒親と絶縁中。

 

 プログラムを始めたきっかけ

メンタリスト DaiGoさんのYouTubeを見るようになり、メンタルが弱い人の特徴が今の自分に当てはまっていることに気づく。

「だから自分は鬱なのか」と自分自身を客観的に見られるようになり、反芻思考を止めるようにしたりすることで、メンタルが少しづつ安定し始める。

鬱がよくなっている実感が湧き、

自分を変えたい

そのために何か行動を起こしたい

と自然と思えるようになったので、チャレンジしてみました。

 

実際にやってみて出来たこと、出来なかったこと

  • 実行頻度は平均すると、ストレッチ10分、瞑想10分、散歩1〜2時間、8階までに階段上り下り1日1,2回、マインドフルネスの勉強1〜2時間、睡眠4〜7時間という感じ。
  • 食事はほぼ完璧で、加工食品はほとんど食べずに毎日自炊し、野菜中心の食事を食べることが出来た。
  • 他人に親切にすることは最初は難しかったけど、途中から意識して出来るようになってきた。
  • 睡眠時間を多く取ることが私にとって一番辛くて、早くベッドに入っても何時間も眠れないという焦りの日々。途中からブログを書くことに夢中になり、睡眠時間を気にしなくなったら、割とすぐに眠れるようになってきた。

 

正直に言うと、このプログラム難しすぎて、全然こなせませんでした。

専業主婦でも1日5時間は難しい。

だけど、完璧にこなせなくても効果はありました。

むしろ完璧主義を拗らせて「完璧に出来ないなら、やらない」と臆病になっていた自分にとっては「完璧に出来なくても意味がある」と実感できたことはよかったと思っています。

 

人生は変わったのか!?人生改造プログラムの成果

確実に変わったと思います。

私の場合は変わったというより、うつになる前の元の自分に戻っていくような感覚でした。本来の自分自身を取り戻し始めた感じ。

自分を見つめ直すことが出来て、なかなか出来なかった過去の辛いこと・逃げてきたことから向き合うことが出来るようになった。

行動力が上がり、人生に対する価値観の変化があった。

好きだったこと、やりたいことを思い出した。

あと、この6週間で3キロ痩せた。

ダイエットしようと思ってもなかなか痩せなかったのに、あまり意識しないでいたら自然と痩せてた。

 

人生改造プログラムと同時進行で行ったメンタル改善に効果があった行動

  • 音楽を聴く
  • 部屋の片付けをする
  • ガーデニングを始める
  • アロマの匂いを楽しむ
  • 友達と会う
  • ブログを書く

 

ブログを書くことが一番私にとって効果があったと思う。

自分の感情を言語化することで、頭の中が整理された。

ブログを公開することで、客観的に冷静になれた気がします。

私は文章を書くことが好きだったんだなーーーと気がつきました。

毎日、夢中で書いてた。

このブログは他の誰でもない自分のために書いたものです。

今のこの清々しい気持ちを忘れずに、これからも生きていきたい。

 

結論とまとめ

本気で人生を変える6週間人生改造プログラムは難しく、きちんとやりとげることは無理だった。

それでも効果があった。

やってみて本当によかった。

1日5時間も出来なくても、1日5分、1つの行動だけでも絶対に効果があると思う。

無理せず、これからも続けていきたいと思っています。

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最終日【人生を変えるプログラム】人生観が変わった瞬間と希望の芽

本気で人生を変えるカリフォルニア大学式6週間人生改造プログラム

最終日の今日は、やるべきことを放置して、ずっと音信不通だった人に会って謝ってきました。

「やりたかったら続けてもいいし、負担になるなら辞めていいよ。どっちでもいいよ」

とあっさり言われて、拍子抜けしました。

 

「次こそは絶対に失敗出来ないから、ちゃんと完璧にこなせる自信がついたら連絡しよう」と思って身動きとれなくなっていたけど、そんなの意味なかった。

やらなきゃ!やらなきゃ!と思ってきたけど、そういうものが増えれば増えるほど、出来なくなっていたやるべきこと。

 

やるべきことだと思っていたけど、

頼まれたからって引き受けなくてもいい。

断ってもいい。

途中で辞めてもいい。

すべて自分で決めていいんだと気がつきました。

 

勝手に期待されていると思って、その期待に答えようと必死になりすぎて、

自分で自分のハードルを上げて、上げ過ぎて飛べなくなっていただけで、

最初からそんな高いハードルはなかった。

 

その人から「逃げてきたことに向き合うことも大事だけど、逃げ道も必要だからね。逃げ道もちゃんと用意してね」と言われ、その言葉が心に残る。

私は、また妄信的になっていたのかもしれない。

 

散歩しながら、思慮を巡らす。

本当はやりたいのか、やりたくないのか。

私はどう生きたいのか。

 

出産後、専業主婦になった私は、自分には社会的価値がなく、社会から断絶されたような気分になった。

何か新しいことを始めなければ、誰かの役に立たなければと焦燥感にかられた。

でもそのきっかけが間違っていた。

「何もしていない自分には価値がないから、何かをしなければならない」

本来好きだったはずの「創造する楽しさ」より、「責任感や義務感」が自分の中で膨れ上がり、重たくなっていった。

失敗する前から恐れ、臆病になって、逃げてしまった。

 

私はずっと母の希望に応えてきた。

どんな些細なことも。

母の希望を察知して、気遣ってあげなければキレられ、怒られる。

私に選択肢や拒否権はなかった。

私の母は不幸でかわいそうな人で、子供の私だけは言うことを聞いてあげなければいけないと思っていた。

子供の頃から母の役に立たなければ、自分の存在価値はないと思い込んでいた。

 

だけど、今の私の人生に母いない。 

「自分の人生の選択肢は自分で決めている」

「今の人生は、すべて自分で選んできた結果」だという自覚がなかった。

 

自分の価値は自分が決める。

今の私は、自分の人生を生きている。

私は自分の人生の選択肢を自分で決めることが出来る。

 

これまでの人生とこれからの人生を切り離して考えることが出来た瞬間、私の人生観は変わった。

私はこの6週間で、きっと私は変われたと思う。

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多肉植物に新しく生えてきた小さな芽。

今の私の希望の芽です。

6週目(41日目)【人生を変えるプログラム】セルフアファームで自尊心を取り戻せ

本気で人生を変えるカリフォルニア大学式6週間人生改造プログラム

残すところ、あと2日。

昨日、この6週間プログラムでの目標を一応達成出来たので、今日は何も気にせず過ごしました。

週末は自分の時間が少なくて、運動したりする時間がないよ!っていつも焦っていたのですが、今日は気にせず、家族との時間を純粋に楽しみました。

 

毎日、努力することも大切だけど、やっぱり私のような意志の弱い人間にはきつかったです。

自由って楽。

 

寝る前にもう少しだけ自分に自信をつけたいなと思って、トラウマの影響を軽減【セルフアファーム】とはを見ました。

 

セルフアファームとは自己暗示(アファメーション)の一種で、過去に体験した自分が誇れることを口に出して言うことでIQや自尊心が戻るという心理療法らしいです。

 

今日も見るだけでなく、実際にこの方法をやってみようと思います。

 

私の人生がもっとも上手くいっていたのは、遥か昔…高校生の頃です。

20代の時は人生で一番頑張ったけど、仕事で評価されずに辛い時期でした。

でも10代の時は他人の評価なんて気にせず、自分の好きなことを見つけて、まっすぐに努力出来た。

 

うちはいわゆる機能不全家族(ギャンブル&アルコール依存症精神疾患、借金などいろいろあって)家が大嫌いだった。

貧困から抜け出したくて、勉強を頑張った。

特に英語が好きだった。

留学したかったけど、諦めていた時に、自治体主催の交換留学プログラムを見つけた。

留学生として選ばれれば、短期留学が出来て、その資金はすべて自治体が出してくれるというもの。

このチャンス絶対に逃すまいと思い、即応募。筆記試験、小論文、面接を経て、留学生に選ばれた。

そして2ヶ月間アメリカへ短期留学した。

一般家庭へのホームステイで、平日は語学学校に通い、週末は教会にいったり、ホームパーティーをした。

あの時、世界はこんなに広くて、そして自分にも可能性が満ちていると確かに感じたのに。

当時16歳だった私は、本当に行動力があったなと、我ながら思う。

 

 

家が貧乏だとか言い訳せず、自分の好きなこと、やりたいことを達成するための方法を自力で見つけ、努力することが出来ていた。

16歳の自分が出来たこと、今の私は出来るだろうか。

 

すっかり忘れていたけど、あの頃はちゃんと自信があったんだなと思う。

「16歳の私」も「今の私も」同じ人間なのだ。

16歳の自分が出来たこと、今の私にもきっと出来る、と思いたい。

毎日、口に出していたら、あの頃の自信取り戻せるかな。

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6週目(40日目)【人生を変えるプログラム】ストレス恐怖感100パーセント!怖くて出来なかったことに挑戦する

現在、鬱回復期で「本気で人生を変える6週間プログラム」をやっています。

 

ここ数日間、今まで逃げてきたことと向き合っているのですが、たぶんそのストレスで喉が焼けるように痛い。

耳鼻科から家に戻って、怖くて向き合えないことに挑戦できるためのノート術エクスポージャー練習フォームを書いてみる。

プレパレーションの部分だけ書き込んでから、今度は以前作った回避ヒエラルキーを下から一つづつ、実践していく。

想像してたより、怖くなかった。やり始めたら、意外とサクサク出来た。

そしてこの6週間プログラムの目標である「やるべき仕事を放棄して音信不通になった相手に連絡する」という項目に来た。

もう1年以上連絡していないのだ。絶対に怒っているか失望されている。

無視されるかもしれない。

今更自分から連絡するのは本当に怖かった。

恐怖感100パーセント!指が震えた。

本当は電話のほうがいいのだけど、喉が痛くて声が出ないので、ラインのメッセージで送った。

1分たっても、2分たっても、緊張感は消えなかった。

そして5分後、すぐに返事が来た。

相手は怒ってなかった。逆に私のことを心配してくれていた。大丈夫だった。私のことを待っていてくれていた。

安堵感なのか、何なのか分からない涙が出た。

いつのまにか喉の痛みは収まっていた。

 

この痛みは、私にとって人生の成長痛みたいなものだったのかもれない。

疲れたり、ストレスが溜まるとすぐ喉に症状が出る私。

最初の頃は仕事の繁忙期や妹が精神病院の閉鎖病棟に緊急入院した時とかに喉が痛くて声が出なくなったりしたが、年々ストレスに弱くなり、毒親が家に来ると言い出すだけで喉がただれ、痰に血が滲むように…。

今日も痛みで声が出ないので、病院へ行った。

 

 

病院の帰り道、河川敷に堆積した土砂を撤去する作業員を見かけた。

気がつけば、あんなに何日も降り続いた雨は上がっていた。

近所の弁当屋のツバメの巣の中にいた雛は巣立っていて、ベランダで育てている多肉植物からは新しい小さな芽が出ていた。

何気ない日常だけど、そこから少し勇気をもらった。

 

私はこの痛みを取り除くために自分の足で歩き、病院へ行き、薬をもらって飲むことが出来た。

些細なことだけど、この当たり前が以前の私には出来なかった。

でも今日の私には出来た。

 1年半以上目を背け、逃げ続けてきたことに今日、私は本当の意味で向き合うことが出来た。

まだ一歩踏み出しただけど、この一歩を踏み出す勇気が持てなかった。

 

逃げている間、私の人生は始まらなかった。

今日から生き方を見直して、新しく生き直す。

人生の空白を取り戻す。

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