女子高生だった私が父親を殺した話【実録毒親エピソード】
人生を変えるプログラムをやってみて、自分の問題点と課題が見えてきました。
今、私が改善すべき点はまずは睡眠の質を高めること。
私は不眠症です。なぜ眠れないのか。
この6週間でその根本的な理由に気がつきました。それは親の存在。
私が眠れない時に考えていることは親への恨み、愛されなかった惨めさ、悲しみ、悔しさ…。
もう親とは一方的に連絡は絶ってるのに、それでも今なお、毒親に囚われている。
このモヤモヤした苦しい思いは書き出すことで、消化できる気がしたので、ブログに書き込んでいきたいと思います。
※一部過激な表現があります。
私が物心がついた時には、父親はほとんど働いていなくて、毎日開店から閉店までパチンコ屋に入り浸るパチンカス。
パチンコに行くためなら、平気で嘘をつくし、お金を盗む最低な人間だった。
人をひいたと嘘ついたり、祖父母が1個10円のボタン付けの内職で稼いだ僅かな収入や子供達のお年玉でさえも盗っていった。
父が歯磨きをしているところは見たことがない。
前歯は全部虫歯で、髪も髭もボサボサで、ボロボロの服をきた父は見すぼらしく、汚くて、まるでホームレスのようで本当に大嫌いで、軽蔑していた。
それでも優しかったり、面白かったりすればまだ救いがあるが、養ってもいないくせに家の中では威張り、家族をバカにして、人格を否定する言葉を平気で言う。今で言うモラハラ野郎。人の気持ちが分からない人だった。
母親の常套句「両親揃ってるのがどれだけ幸せなのかよく考えなさい!お母さんはあんたたちのために離婚しないんだから」というセリフも大嫌いだった。
家族への愛情も親としての責任感もなく、社会的に見ても底辺の屑が自分の父親なのだという事実は、私を惨めにした。
親を尊敬できない、むしろ軽蔑している、家が貧しい、毎日の夫婦喧嘩、家の雰囲気が悪い…。私のメンタルはきっとやられていた。
私は小学生の頃から父親を殺す方法を考えて過ごしていた。
庭にはスズランが咲いていて、この葉をニラに混ぜて料理したら毒で死んでくれないかなとか、車の運転席の下にスチール缶を転がしておいたら、ブレーキ踏めなくて事故ってくれないかなとかよく妄想していた。
死んで欲しい。
子供の頃からずっと思ってきた。
父親に死んで欲しいと思わなきゃやっていけない子供時代。
この話を実際に友達に話したことがある。
「虐待されなかったんだから、まだいいじゃん」
「それでも親だからよく話し合えば分かり合えるよ。許してあげなよ」
この嫌悪感を超えた父への憎悪は誰にも伝わらないのかもしれない。
私が高校生の時、教科書や定期代を買うために貯めていたバイト代が盗まれた。
私は泣きながら母に訴えた。
自分の為に貯めたものだけど、このお金は母の為に貯めたものでもあった。
苦労している母の為に、高校生だった自分が出来る最大限のことだった。
買いたい服もCDも我慢したのに。
私は思わず口にだしてしまった。
「あんなやつ死ねばいいのに」
ずっと思ってきたことだった。口にするのは初めてだった。
母は烈火の如く怒りだした。
「お父さんがいなかったら、あんたは今存在してないのよ。お父さんに謝りなさい。お父さんに感謝しなさい」
話はすり替わり、私はさんざん怒られ、父の窃盗の話はどこかへ行った。
盗られたお金は返ってこなかった。
その数日後、父親がまた勝手に借金をつくっていたことが発覚し、母は一人で家出した。
バイトから帰ると珍しく家に父がいて、ヘラヘラしながら「お母さん、実家に帰っちゃったから、これ食べて」とカップ麺を手渡してきた。
こんな時なのにニヤニヤ笑う顔が心底気持ち悪く、嫌気がさした。
その瞬間、今まで抑えてきた父親へ感情が爆発した。
「死ね!!」と言ってカップ麺を床に叩きつけた。
その夜、あんなのが自分の親だと思いたくなくて、私は父親を殺した。
心の中で。
本当に殺したかったけど、あんなやつのせいで自分の人生を棒に振りたくなかったから、心の中で殺すしかなかった。
わたしには父親はいない。
それから20年以上父親とは話していない。
両親揃っていることが幸せとは限らない。
一緒に暮らしているのに、愛情も関心もなく、何もしてくれない方が子供にとって残酷なこともあると思う。
ずっと避けて、心の奥にしまっていたこのネガティブな感情。
私に父親はいない。
無事に成仏してください。南無ー。